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昭和歌謡曲 フォーク先駆者たち

昭和・歌謡曲のフォークの先駆者たちをご紹介!

日本でフォークが生まれた背景は、昭和歌謡 フォーク編でご紹介しております。

昭和の歌謡曲のフォーク界のさきがけになった人物たち、井上陽水、吉田拓郎、南こうせつ、谷村新司、さだまさし、小椋 桂の生い立ちや楽曲の逸話や秘話をご紹介いたします♪

井上陽水 自由で異端の行動をとりながら正統化させる詩人、天才アーティスト

昭和もテレビの普及により、歌を聴くことも変化していきました。テレビの時代に入ると派手なコスチュームにアクションをつけて見せるものに変わったのです。

それ以降は、テレビに出演して、その見せる相乗効果で歌をヒットさせ、願わくば年末の一大イベントのNHK紅白歌合戦に出場できたらという方向へ移り変わっていきました。

その流れの中で、日本レコード史、初のミリオンセラー「傘がない」「心もよう」があるのに、かたくなにテレビには、出演せず、外見をファンの目にも触れさせないシンガーソングライターが登場しました。

井上陽水です。

昭和40年後半のフォーク界の頂点に、吉田拓郎と共に立っていた伝説的人物。

その経歴は、高校時代にビートルズサウンドに熱中し、数人の仲間とビートルズ漬けの生活を送り、家業の歯科医を継がず、九州から上京して歌手を目指しました。

九州時代には、RKB毎日放送に、自作曲を放送するコーナーがあることを知って、多重録音の疑似弾き語りをして「カンドレマンドレ」の曲名をつけ、アンドレカンドレの芸名で発表をしてました。

多重録音の疑似弾き語りって、今でいうエアー演奏ですよね、それに曲名が「カンドレマンドレ」で、芸名がアンドレカンドレって、ふざけているようにしか(笑)思えないんですけど~。

でも、井上陽水は、この芸名アンドレカンドレで3枚のレコード出してるんです、ビックリ!!!

案の定、全く売れず、昭和47年3月、井上陽水の芸名で「人生が二度あれば」で再デビューしたんです。曲名も意味深です(笑)再デビューですから。

井上陽水が、再デビューした3ヶ月後に発売されたオリジナルアルバム「断絶」の中の一曲が、評価され注目された「傘がない」でした。

”誰かが深刻な顔をして喋っている だけども問題は今日の雨 傘がない・・・”

深刻な社会状態よりも、目の前の雨模様の日に傘がないと歌う、心に傷を負った若者の心象風景は、連合赤軍と警察隊との間に起こった浅間山荘の銃撃戦があった時節、同時代に受け入れられてミリオンセラーになったのです。

代表作の1つになる「心もよう」は、昭和48年9月に リリースされました。B面には、忌野清志郎と共作の「帰れない二人」が収録され、その相乗効果で、オリコンで初めてベスト10入りを果たし、40万枚を超える大ヒットになりました。

「心もよう」は、アルバム「氷の世界」に収録されましたが、そのアルバムは発売1か月足らずで、30万枚を売り、翌年の昭和49年、アルバムとしては日本初のミリオンセラーになったのです。

シングルではなくアルバムをミリオンセラーにするのは、至難の技。しかし、井上陽水の身の回りの心象風景をやさしく綴り、親しみやすい曲調にまとめた歌は、同世代に圧倒的に受けたのです。

もう4年ぐらい前になるんでしょうか?

NHKのBSプレミアムで、井上陽水 ドキュメント“氷の世界40年” ~日本初ミリオンセラーアルバムの衝撃とその時代~という番組を、ちょうど見ていました。

井上陽水ご本人のインタビューや著名人の方々のアルバム「氷の世界」の中の楽曲で好きな曲は?偶然、番組と出くわし、楽しんでみていました。

その中で、このアルバム「氷の世界」が世に出たことにより、「今までの芸能界が成り立たなくなってしまう」というビックリするような意見がありました。

それまでの芸能界は、作詞家、作曲家がいて、歌手がいて分担作業だったものを、シンガーソングライター登場によって、全部一人で完結させられると、「今までの芸能界は終わったなぁ」と思ったという意見でした。

この当時だったら、メディアにも登場せず作詞作曲も歌も手がけて、アルバム出すとミリオンセラー、それは、それは、衝撃だったと思います。

特に「心もよう」の心象描写は、”詩人・井上陽水”

「心もよう」は、中森明菜。南沙織に「傘がない」さらに、中森明菜、斉藤和義にもカバーされています。

井上陽水は、またニューミュージックの元年に、位置づけられる昭和50年、吉田拓郎小室等、泉谷しげるらと、自分たちのレーベルを売る「フォーライフレコード」を設立しました。

自分たちが作った音楽を、自分たちの手で製作するという、それまでになかった画期的な方針を実現しました。

井上陽水は、常に異端の行動をとりながら正統化させるミュージシャンなのです。

吉田拓郎 フォークとロックを日本の音楽業界の主流にまで高めたロマンチックなアーティスト

昭和40年代、まだまだマイナーだったフォークとロックの二分野を、音楽業界の主流にまで高めたのが吉田拓郎でした。

大規模な野外コンサートの開催、コンサートのツアー化、CMソングへの進出、レコード会社設立など、後の音楽界、色んなミュージシャンに、多大な影響を与えた人物でもあります。

昭和41年、コロンビア主催のフォークコンテストに出場し、全国3位となりました。これをきっかけに週刊誌「平凡パンチ」で「和製ボブ・ディラン」と紹介され、広島県内での知名度が一気に上がったのです。

昭和45年、広島フォーク村のオムニバス・アルバム、「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」を 自主制作し、同年、インディーズレーベルの先駆けエレックレコードより「イメージの詩」「マークII」のカップリングでシングルデビューしました。

そのまま、エレックレコードの契約社員となったが、エレックではまともな仕事をもらうことがなく、翌年の昭和47年、レコード会社をCBSソニーに移籍しました。

その第1弾シングルが、自作の「結婚しようよ」でした。

「結婚しようよ」は、40万枚以上を売り上げる大ヒットとなりオリコンチャート3位を記録。この曲こそ、それまで長髪の若者たちの反体制的な音楽としてしか見られていなかったフォークソングをメジャーに押し上げた楽曲になりました。

” 僕の髪が肩まで伸びて 君と同じになったら・・・"の歌詞が、ヒット曲になったのは、男性のロングヘアーが世の中に認められた証拠でした。

これを機に、吉田拓郎は、”フォークのプリンス”として、女子中高生の間で人気が高まり、かつてのグループサウンズに群がる熱狂的な女性ファンの光景が再現されました。

昭和49年、森進一に提供した「襟裳岬」が、日本レコード大賞を受賞し、大晦日の晴れの舞台に、上下ジーンズの普段着姿で現れた賞を受け取り、話題となったのです。翌年の昭和50年、平仮名の「よしだたくろう」から漢字の「吉田拓郎」へと改名しました。

フォークソングを語るのに「拓郎以前」と「拓郎以降」に別れると言っても過言ではありませんでした。

それまでのフォークにあった政治制等を排除し、個人の生き方や恋愛をテーマにした拓郎の歌は、「大衆に迎合している」「軟弱な歌」「商業主義の裏切り者」など、従来のフォークファンから数々の批判を受けました。

ジョイントコンサートなどの会場では、激しい” 帰れコール ”を浴び、ひどい時には石まで投げられたこともありました。しかし、いくら罵声を浴びても、ひたすら歌い続ける吉田拓郎の姿が、熱狂的な拓郎ファンを増やしていったのです。

吉田拓郎の曲作りの特徴に、字余りの作詞法があります。それまでの日本の歌謡曲は、ひとつの音符に、ひとつの文字がはまっているのが当たり前でした。

拓郎のような、字あまりも字足らずを気にせずに、言葉をメロディーにのせる作風は今までになく、拓郎から始まったこの手法は、以後数々のミュージシャンが取り入れることになりました。

平成15年に、肺がんを患い手術で克服したものの、近年は体調不良でのコンサート中止が多く残念ですが、いつまでも拓郎節、聞かせて欲しいものです。

南 こうせつ  昭和の同世代の若者の刹那的心情を語りかける様に、歌ったアーティスト

日本におけるフォークソングの原点「神田川」は、かぐや姫と名乗った男性グループが歌って一大ロングセラーになったのです。

作詞・喜多条忠、作曲・南こうせつで、この歌の誕生の経緯をみると、男性グループがおとぎ話「かぐや姫」を名乗ったのは、結成の相談をした場所が竹やぶの中だったとか、中心人物の南高節(みなみこうせつ)の出身地が、大分県大分郡竹中村だったからの諸説があるものの、後の説が正解だそうです。

南こうせつは、高校時代から音楽活動を始めていました。明治学院大学へ入学したものの、学業より歌うことを優先させ、昭和45年4月、「最後の世界」「むなしいうた」でソロデビューしていました。

同年10月に、南こうせつとかぐや姫で、ベース奏者の大島三平らと「酔いどれかぐや姫」をリリース、日本歌謡選手権に出場しました。昭和46年、南、伊勢正三、山田パンダの3人で、第二期「かぐや姫」を結成。
この時から、南こうせつと名乗りました。

”四畳半フォーク”と言われる「神田川」を作曲したのは、第二期時代でした。

フォーク仲間の喜多条忠から、南のアパートに電話がかかってきて「いい詞ができたんだ。ちょっとメモを取ってくれ」と前置きがあって、” 貴方はもう 忘れたかしら 赤い手ぬぐい マフラーにして・・・ ” という詞が、受話器から南の耳に流れてきました。

南こうせつは、言われるままにメモを取りながら、その詞に乗って浮かんできた旋律が、「神田川」の曲だったのです。

詞を作った喜多条も南も、当時は同じような貧しい生活をしていたから、「神田川」に書かれた三畳一間に同棲する若い男女が、銭湯へ行って肩を寄せ合って帰る情景が、リアルに作詞・作曲できたのでした。

ですが、即興に生まれた作品だけに、字足らずと音符がしっくりいかない箇所もあったのです。
一例を挙げると「二人で行った横丁の風呂屋」文才はリアルに過ぎ、早口に処理しないと曲のリズムにのれなかったのです。

ようやくLPの一曲に収録されて、南がDJを担当していた、「パックイン・ミュージック」など、深夜放送で「神田川」が流されると、「今の曲をもう一度かけて」のリクエストが殺到しました。

クラウンレコードで、改めてシングル盤を発売すると、ヒットチャート1位に躍り出たのです。南こうせつは、「神田川」のヒットをきっかけに、次々とシングルアルバムを発売。

昭和51年3月、日本武道館でワンマン公演を開催して、フォークシンガーの真価を問いました。「神田川」の喜多条、南コンビが再びクローズアップされたのは、平成25年の暮れでした。

島倉千代子が、亡くなる3日前、自宅の特設スタジオで、息が絶え絶えで死力を尽くして歌った「からたちの小径」を、南こうせつは千代子に切望されて作ったのでした。

歌のタイトルが示すように、島倉千代子が昭和33年に歌って大ヒットした、作詞・西沢爽、作曲・遠藤実の「からたち日記」のリメイク的な歌だったのです。

谷村 新司 宇宙、世界を舞台にかけめくる天才肌のアーティスト

谷村新司は、フォークグループのアリスを率いて日本人アーティストとして初めて日本武道館三日間公演を成功させたシンガーソングライターです。 

あの有名なビートルズが初来日し、この会場を超満員にしていたが、日本人で三日連続の公演を成功させたの偉業でした。 

アリスとして、膨大なライブを積み重ね、後に国際的な評価を得るシンガーソングライターだからこそ達成できた快挙といえます。 天性の音楽家といえそうだが、谷村新司がこの道を志したのは「女にモテたいの一心だった」と告白しています。

谷村新司の少年時代は、太っていて「豚」とあだ名されていたそうです。 高校時代に、ギターを習いピーター・ポール&マリー風のフォークグループ「氷砂糖(アイスキャンディーズ)」を結成したのが、この世界へのスタートでした。  

昭和47年、堀内孝雄と2人でアリスを結成して、「走っておいで恋人よ」デビューしました。翌年、矢沢透を加えて、 二ギター&ボーカル1パーカッションというシンプルな編成で、ブルース色の強い演奏活動に入りました。 

当初は、これといったヒット曲はありませんでしたが、ライブを重ねる中で、若者たちの望んでいる楽曲を次々と発表していくのです。  

それが昭和50年になって、初のヒット「今はもうだれも」 続いて「冬の稲妻」「涙の誓い」「ジョニーの子守歌」「チャンピオン」「狂った果実」の ヒットに繋がりました。 

谷村新司は、アリスの活動と並行してソロ活動を開始し、「蜩(ひぐらし)」を皮切りにソロのアルバムや他の歌手に提供する作品を精力的に作り始めました。  

昭和から平成にかけて、日本と言わず中国・東南アジア・欧米でも歌われる楽曲の数々は昭和50年後半からの活動の賜物でした。

山口百恵の「いい日旅立ち」に「陽はまた昇る」を経て、昭和55年に作詞・作曲・歌を一人でこなし、世界20数カ国で愛唱される「昴」を発表しました。 

翌昭和56年、東宝映画の「連合艦隊」の主題歌となる「群青」を発表して、実力と人気を確立させました。 

以後の活動は、国際的で作詞・作曲を手がけたオリジナルアルバムを紹介すると「海を渡る蝶」「EMBLEM」「伽羅」「獅子と薔薇」「輪舞ーロンドー」「Price of Love」「三都物語」「サライ」「ラバン」「オリオン13」「今伝えたい」など。  

この中で「獅子と薔薇」は、昭和63年、ロンドン交響楽団と共演した大作。「輪舞ーロンドー」は、国立パリ・オペラ・オーケストラと共演。

 「Price of Love」 は、ウィーン交響楽団プロジェクトの共演の「ヨーロッパ三部作」となっています。  

この時期の谷村新司は、他にも欧米のミュージシャン・プロデューサーと組んだ仕事が多く、国内では北島三郎、さだまさし、郷ひろみ、加山雄三。 

アジアでは、チョー・ヨンピル、アラン・タムと共演するなどスケールが大きいこと。 彼はまた、中国への思い入れが深く、日中共同コンサート「ハンド イン ハンド北京」を開催したり、上海音楽学院教授を務めました。

あの名曲「昴」の歌詞は、宇宙人と交信してできたと谷村新司自信が語っているそうですが、本当じゃないかと不思議ですが思えます(笑)

さだ まさし 繊細で細やかな歌詞や旋律とそれに対比したコミカルな詩も奏でられるアーティスト

さだまさしは、噺家のようなトークとクラシック音楽の技法を得た曲付のシンガーソングライターです。 

九州は長崎に生まれ、3歳でバイオリンの手ほどきを受け、小学校6年で毎日学生音楽コンクール西部地区大会に上位入賞しました。 中学1年の時、バイオリンの修行のために単身で上京していました。

志望した音楽系の高校へは入れず、国学院高校から大学へ進むが、その間にギターや作詞、作曲、小説、落語など多方面で頭角を現していました。  

昭和47年に、肝炎を患い大学を中退して長崎へ戻るが、そのさだを追いかけるようにやって来たのが、高校時代からの友人、吉田政美でした。 二人は意気投合して、バンド「グレープ」を結成しました。

翌年の昭和48年、ワーナーパイオニアから「雪の朝」でデビューし、二作目のさだまさし作詞・作曲で歌った「精霊流し」で早くもヒットを飛ばしました。 

この曲は、長崎の風物詩、7月15日の盂蘭盆(うらぼん)の行事をタイトルにした、聴くものの涙を誘う曲でした。前年の夏、海で命を失った一つ年上の従兄のことを歌っていたのです。  

従兄は、まさしと兄弟のような関係で、その日、海水浴場でガールフレンドとボート遊びをしていて、オールを潮に流され、慌てて海へ飛び込み、心臓麻痺で死去していたのです。  

さだまさしは、その衝撃と深い悲しみを追悼歌として作詞し、バイオリンの音色にマッチした、哀愁漂う繊細な曲を作り、吉田政美のギターの音を加えて歌ったのでした。 

「精霊流し」は、地方局の深夜番組から火がつき、全国に広がってヒットし、昭和49年の第16回日本レコード大賞の作詞賞を受賞しました。 

さだまさしは、この後も落語のオチをつけたような「雨やどり」「関白宣言」、山口百恵に提供した「秋桜」、「道化師のソネット」「防人の歌」「驛舎」などスケールの大きな数々のヒット曲を出しました。 

また、昭和56年には、中国大陸を流れる大河を踏破するドキュメント映画「長江」を自主制作し、話題を獲ったものの、莫大な制作費で大きな負債を被り、その返済にしばらくは追われる日々でした。 

さだまさしの代表曲「関白宣言」 

関白とは昔天皇を助けて政治を取り仕切った最高の官職を意味していて、威張っている者=亭主、その亭主候補が結婚相手に、「一緒になったら僕より先に寝るな」「風呂は先に入るな」と、時代錯誤の言葉を次々と吐いた挙句に「僕より先に死んではいけない」と、ホロリとさせるオチをつけたコミックソングに仕立てたのです。

オチがなければ大ブーイング決定!の「関白宣言」は、リズミカルなメロディーに歯切れのいい詞が受け、さだまさしの歌によって150万枚の大ヒットになったのです。  

「関白宣言」「雨やどり」は、シンガーソングライターさだまさしの語りの真価を大いに発揮した歌と言えます。

小椋 桂 心に響く言霊を紡ぎ、繊細なメロディ、やさしい歌声で語りかける教養豊かなアーティスト

小椋佳の本名は、神田紘爾(かんだこうじ)で、東京大学法学部に学び、日本勧業銀行(現みずほ銀行)に入行。

銀行マンとして証券部証券企画次長、浜松支店長、本店財務サービス部長を歴任する一方で、音楽活動を行っていました。

この間、ノースウエスタン大学へ留学、メリルリンチ証券派遣など、米国滞在を経験していました。

シンガーソングライターとして、歌手デビューしたのは昭和46年で、当時はフォークソングを歌っていましたが、次第ににジャンルを広げていきました。

銀行員を通せば、役員コースは、間違いなかったはずですが、平成5年に銀行を退職しました。

音楽活動に、軸足を移す一方、東京大学法学部に学士入学をし、さらに文学部、大学院と進んで、平成12年に哲学専攻の修士号を取得しました。 

銀行員されているぐらいは、知ってましたが、銀行退職後に、大学院まで進んで修士号を取得するなんて、音楽もやりながらでしょう・・・スゴい!

時間は、人間みんなに平等に、もらっているのに、使い方なんですね・・・反省しちゃいます。

小椋 桂は、デビューをから数々の歌手への提供曲を書いていて、ヒットした曲に、布施明の「シクラメンのかほり」、中村雅俊の「俺たちの旅」「時」、美空ひばりの「愛燦燦」三橋美智也の「十六夜だより」などがありました。

「愛燦燦」は、美空ひばりが死去する一年余り前に歌って、大ヒットに結びつけていました。

作詞・作曲は、小椋 佳で、歌のタイトルからして、作者の知的レベルを彷彿とさせるが、小椋 桂の経歴を知ると納得ができます。  

美空ひばりが歌い、自らも歌っている「愛燦燦」は、味の素のCMソングとして作られた歌でした。

ハワイのさとうきび畑で働く農夫が、激しい雨にさらされて農家の軒先で雨宿りをしている状況と、1日の仕事を終え、荷馬車に乗って家族が、さとうきび畑から家路をたどる夕暮れのシーン。

この映像のどちらかを背景にして、家族の温かさを見る側に伝わるように美空ひばりが歌う、いう企画でした。

小椋 桂に、ハワイで撮った二つの映像を見せた上で、そのイメージに沿ったひばりのオリジナル曲を作ってもらう手筈でした。

小椋 桂から届いたデモテープを、美空ひばりと一緒に聴いた担当プロデューサーの境弘邦は、聴くうちに鳥肌が立ち、「いける!きっとこれでまた美空ひばりの新しい時代が生まれる!」と確信したのでした。

美空ひばりもまた、「いい曲ね。これアルバムに入れるよりもシングルにした方がいいと思うんだけど」と、満足顔で微笑みながら言ったのです。

レコーディングに立ち会った小椋 佳は、「無言のまま、時折、体を小刻みに震わせていた」と、境は述べていた。

小椋 桂は、後にテレビで、苦笑いまじりに次のように語りました。

「不思議ですね。ひばりさんが歌うと、すっかりひばりさんの歌になってしまうんです。この歌はひばりさんの人生の歌になってしまった」

この歌は、一番の雨の降るさまを、「潸々と」、二番の風の吹く様を「散々と」、 そして三番の愛情が太陽のように明るく輝く様を表す「燦々と」など、「さんさん」と発音する語彙で統一していました。

小椋 佳の深い教養が見事に実った一曲です♪

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