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ひばり・チエミ・いずみの昭和アイドル三人娘逸話

美空ひばり、江利チエミ、雪村いずみ。

三人ともが、昭和12年の同い年。所属レコード会社は、美空ひばりがコロンビア、江利チエミがキング、雪村いずみがビクターと、三社の看板娘が出揃ったのでした。

まず、三人娘の初顔合わせを、ある雑誌誌上でしようという企画が、持ち上がりました。まず美空ひばりと江利チエミのです。

しかし、その当時の芸能界、今の時代のTVや舞台とは違い他のレコード会社の歌手同士が顔を合わせるということが、ほとんど無かった時代でした。(今では、考えられません)

さらに、美空ひばりと江利チエミら本人よりも、周りのライバル意識が半端なかったのもあり、お互いに会いたがらなかったそうです。

しかし、三人娘の初顔合わせ、まずは美空ひばりと江利チエミを合わせるというのが第一のミッション。

しかし、そう簡単には、実現できずにいました。

そこで、美空ひばりと江利チエミ、二人と大の仲良しであった高田浩吉に司会進行をお願いしてみました。

二人ともが、「浩吉先生が間に入ってくれるのならば・・・」と、やっとOKが出て、対談へと話が運びました。

昭和29年、場所は、京都のとある料亭。

はじめは、ご両人とも緊張して、ぎこちなかったのですが、浩吉先生の上手な進行と雰囲気で、たちまち二人は意気投合。

美空ひばりの十八番の東北弁の「黒田節」や江利チエミの浪曲・虎造節まで飛び出し大盛り上がりのかくし芸くらべとなってしまったそうです。

初対面で、すっかり打ち解けてしまった二人は、この日を機に大親友となったのです。


そして、翌年の昭和30年には、雪村いずみを加えた三人娘が、雑誌の座談会で初顔合わせが実現したのでした。

この企画が、大反響を呼び、「三人娘主演で映画を!」と、さらに、夢は広がって、その雑誌誌上で三人娘をイメージして連載された小説「ジャンケン娘」が、映画化となったのでした。

映画「ジャンケン娘」は、東宝でクランクイン。

当時、開設して間もない後楽園遊園地で、その当時では、珍しかったジェットコースターに乗る場面や多摩川畔の七本松土堤でのロケなどでは、三人は大はしゃぎで楽しそうだったそうです。

人気スターであっても、18歳の女の子たち。周りは大人ばかりの中で、同年代の女友達との仕事は、仕事であっても、それは、忘れがたい楽しい思い出であったことでしょう。

撮影所の中では、原節子や越路吹雪クラスらが使っていた部屋が、美空ひばりに与えられ、他の二人にも、それぞれ、いい部屋を与えてもらっていたのです。

しかし、各々が「一人ではさみしい」と、美空ひばりの部屋に押しかけて、三人同居部屋になってしまったそうです。

そして、休憩時間には、お菓子を持ち込んでの今でいう女子会。

後々まで、この三人娘の愛らしい賑やかさが、撮影所で語られていたそうです。

美空ひばり 歌うために生まれてきた”不死鳥・美空ひばり”

美空ひばりは、昭和の戦後と共に生きた空前絶後のって、サンシャイン池崎のギャクみたいですが、エンターテイナーの大御所歌手でした。

歌が大好きな魚屋さんの娘さんが、十二歳にして舞台に立ち、はじめは笠置シヅ子のモノマネからスタートして、 作曲家・万城目正のオリジナル曲、「悲しき口笛」「東京キッド」「私は街の子」などに恵まれ、デビュー4年目の昭和27年4月には、東京歌舞伎座で初のリサイタルを開くまでになりました。

翌年の昭和28年、松竹映画「お嬢さん社長」に主演したのを機に、”一卵性双生児”を自称する母の喜美枝が、「お嬢」と呼ぶようになって、ニックネームになりました。

美空ひばりは、以降、たくさんの映画に主演し、舞台に立ちました。美空ひばりの歌や映画は、昭和の時代を象徴していて、戦後のインデックスと言われるまでになりました。

美空ひばりは、昭和の終わりと共に、生涯を終えました。が、しかし、その52年の生涯に吹き込んだレコードは、1500余。オリジナル曲は、517曲に及びます。

日本コロムビアの調査によると、シングルベスト20は、死亡した時点で次の通りでした。

1位「柔」180万枚、2位「悲しい酒」140万枚、3位「真っ赤な太陽」130万枚、4位「リンゴ追分」120万枚、5位「港町13番地」100万枚、6位「波止場だよ、お父つぁん」100万枚、7位「東京キッド」100万枚、8位「悲しき口笛」90万枚、9位「ひばりのマドロスさん」90万枚、10位「哀愁出船」80万枚。

以下、「越後獅子の唄」「私は街の子」「みだれ髪」「川の流れのように」「ひばりの花売娘」「お祭りマンボ」「おまえに惚れた」「ひばりの佐渡情話」「娘船頭さん」「車屋さん」

「みだれ髪」は、作曲家・船村徹が、美空ひばりに書いた最後の曲で、作曲を依頼された時、美空ひばりは、福岡の済生会総合病院入院中でした。

船村徹は、ようやく退院してレコーディングに入るも彼女に「無理をしないで行きましょう」と言うと、美空ひばりは、「今まで通りの船村メロディーでお願いします」と答えたそうです。

作曲家・舩村徹は、この一言に感激して、作詞家・星野哲郎が渾身の思いを込めて綴った「みだれ髪」に、美空ひばりでなければ歌えない、一番高いファルセットのさらに半音高い音を配しました。

瀕死の重病から奇跡の復帰を果たした”不死鳥・美空ひばり”へのはなむけの気持ちが込められていたのです。

美空ひばりは、これに応えて大勢の報道陣が見守る中で、一発勝負の同時録音を終えて、テープの再生を厳しい表情でチェックしました。

レコーディングに立ち会った、作詞家・星野哲郎は、「歌い終わりの”ひとりぼっちにしないでおくれ”が、この人の本音と重なったかなあ」とつぶやき、あとは黙然としていたそうです。

一方、作曲家・船村徹は、その日の録音風景を次のとおりに紹介していました。

「みだれ髪」の4行目1コーラス目の詞で言うと、「投げて届かぬ 思いの糸が」という一節。そのうちの「届かぬ」のくだりで「ぬ」から「が」の間の音の動きを、完全五度の音程に書いていました。

この部分は、舩村自身が、最もあれこれと苦しみ抜いたところで、完成した段階でもなんとなく気持ちの引っかかりがあったそうです。

スタジオに、流れる美空ひばりさんの歌はとても病み上がりとは思えないような張りのある美しい歌声でした。

その歌を聞いた舩村徹は「やられたぁ・・・」心にひかかっていた完全五度の音程が、短三度に直されて歌われていたのです。

舩村徹は、誰にもみつからないように、その場で譜面を書き直したそうです。美空ひばりの死は、このレコーディングの1年8か月後でした。

江利チエミ  愛に生きて・・・日本の"カバー歌手”さきがけ

昭和の戦後、美空ひばりに続いて華やかに登場をした少女歌手が江利チエミでした。

独学で、クラリネット、ピアノを身につけ、三味線漫談・柳家 三亀松の絶妙なピアノ伴奏をしていた久保益雄を父に、東京少女歌劇出身の軽演劇女優・谷崎歳子を母に持つ家庭に生まれました。

本名は、久保智恵美で、芸名の江利チエミは、進駐軍のキャンプまわりをしていて「エリー」の愛称で呼ばれていたことから母親がつけたそうです。

昭和24年、12歳でステージに立ったのは、父が師匠の柳家三亀松とケンカ別れで職を失い、母が病床にあり、二人の兄の生活を支えるためでした。

進駐軍のキャンプまわで、アメリカのヒット曲を覚え、ファンとなった兵士からプレゼントされた「テネシーワルツ」にめぐり逢い、運命の扉が、開かれることになりました。

この曲をデビュー曲に決め、各レコード会社のオーディションに挑んだが、ことごとく失敗。最後のキングレコードに合格して、昭和27年1月「テネシーワルツ」と「家においでよ」を、日本語と英語のチャンポンで歌い、歌の意味が通じたことで大ヒットとなりました。

美空ひばりの後を追うことになった抜群のリズム感と巧みな横文字歌詞のコピーで、日本における”カバー歌手”のメジャー化のさきがけとなりました。

昭和28年、春には、アメリカに招かれてキャピトルレコードで「ゴメンナサイ」「プリティ・アンド・ベイビー」 をレコーディング。

ヒットチャートにランキングされるという快挙を成し遂げています。

帰路に、ハワイで公演し、そこで合流した人気のジャズボーカリストのデルタ・リズム・ボーイズと共に、凱旋帰国して、ジョイントコンサートを各地で開き、スキャット唱法も身につけ、日本のジャズボーカリスト・ナンバーワンの地位を確立しました。

それ以降、美空ひばり、江利チエミを後追いして登場した雪村いづみとともに”3人娘”と呼ばれ、昭和30年「ジャンケン娘」など一連の映画で一世を風靡しました。

その一方で、明るいキャラクターを活かし、長谷川町子の人気漫画「サザエさん」の映画で主人公になって、シリーズ全10作に主演しました。

昭和34年、ゲスト主演した東映の共演が縁で、当時、侠客映画の人気俳優・高倉健と結ばれ、一度は芸能界を引退して家庭に入りました。

その頃、身辺の手伝いを頼んだ異父姉に、数億円を横領され、高倉健に迷惑をかけられないと、離婚を申し入れ別れたのでした。

高倉健を嫌いになって離婚したんじゃない、逆に高倉健に迷惑をかけれないと思う心底から愛情が哀しく、涙を誘います。

高倉健との離婚後、莫大な借金を返すために、舞台・テレビ・映画に活躍を続けるが、次第に人気は衰えていきました。

しかし、本職の歌では、巧みな節回しを活かして、日本民謡から歌歌謡曲まで、歌いこなし、作詞・山上路夫、作曲・鈴木邦彦の「酒場にて」が久々のヒットとなりました。

”死ぬこともできず 今でもあなたを想い" の歌詞に、生涯、愛し続けた高倉健の姿を重ねて歌っていたんでしょう。

このヒットによって、NHKから紅白歌合戦への出場要請を受けましたが、「もう紅白は卒業したので」と、かたくなに出場を拒みました。それから、8年後の昭和57年2月13日、脳卒中と誤嚥(ごえん)で、45歳の若さで亡くなりました。

美空ひばりと江利チエミ

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